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日本のベンチャー企業列伝「ホンダ」2 本田宗一郎の真骨頂 四輪車への進出


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私が見た本田宗一郎「企業は人なり」とよく言われます。会社を成り立たせるためには「ヒト、モノ、カネ、情報」の経営資源が必要ですが、「このうち最も大切なものは何か?」と問われるなら筆者は即座に「ヒト」と答えます。上場企業として多くの事業部や子会社を保有する大企業ではそれほどではありませんが、創業間もない「スタートアップ企業」の場合は特にそうです。経営者の「人となり」がそのまま企業の性格であると言えます。
日本でも明治以後、膨大な数の企業が生まれてきましたが、現在まで活躍している企業のなかで最もユニークで、経営者の性格が企業風土に影響を与えている企業と言えばホンダ(本田技研工業)を挙げることができます。ホンダの創業者・本田宗一郎ほど、ベンチャー経営者、アントレプレナー、技術屋社長、オヤジなどの形容詞が付き、その特異さが語られてきた経営者はいません。
クモノスで筆者は多くの創業社長のことを書いてきましたが、そのほとんどは歴史上の人物で、資料を読み解いていますが、本田宗一郎氏とは面識があります。そのため、確かにユニークで興味深い人物であったと自分の体験から言えます。
まず、その一端を紹介しましょう。以下は、筆者も執筆に参画した「夢を力にするプロの教え 本田宗一郎」(ビジネスの巨人シリーズ、アスペクト社)からの引用です。
不確実性――現場から時代を透徹する眼<駆け出しの新聞記者時代、本田宗一郎氏の晩年に合った。最も晩年といえるのは今だからで、当時はピンピンしている現役の経営者に見えた。「不確実性の時代だって?今まで不確実でない時代なんかあったかね」
籍を置いていた東京商工会議所の記者クラブでの懇談の席での本田氏の言葉だったと記憶している。「不確実性の時代」とは、1978年(昭和58年)に日本で訳書が発売され話題になったジョン・K・ガルプレシスの書。だが、この世界的経済学者の学説も現場を知り抜いた本田の親父さんにかかると”学者のたわごと”になってしまう。
周りを取り巻く大新聞のベテラン記者に混じって20代の駆け出し記者の私も、初めて見る伝説の人を「へー、この人があの本田宗一郎か」と思ったが、ズバリと言い切る言葉の切れ味にほとほと感心して、すぐ机に戻り「今週の語録」というコラム宛てに本田氏の言葉を送信した覚えがある。
人は歴史のなかに生きている。しかし、その歴史も人がつくるものだ。そして人間の宿命は、歴史の先、明日はだれにも分からない。確かに明日は不確実だ。だが、明日は今日の連続であることは確実だ。不確実のなかに生きるのが宿命なら、せめて確実な今を確実に生きる――。本田氏の言葉を噛み締めて考えると、こんなことが浮かんできた。>
乗用車の特振法に激怒した本田宗一郎本田宗一郎と藤沢武夫が総力を挙げて建設した「スーパーカブ」生産用の鈴鹿製作所は1960年に稼働を始め、立ち上がりは月産3万台でしたが、翌年にはすぐに月産6万台を突破し、2年後の62年には月産100万台を突破します。2輪車市場に続々と参入する競合他社に対しいてホンダは驚異的な生産体制で臨み、同社の二輪車市場におけるシェアは62年には44%まで急伸し、63年以降は60%を超え、不動の地位を確立します。そしてこの鈴鹿製作所での大量生産体制の確立は、四輪車市場への進出への足場となります。
さて、数多くの本田宗一郎の”伝説”のなかで現在まで語り継がれ、最も興味をそそるのが通産省に対する宗一郎の反撃です。
1961年(昭和36年)、通産省は産業自由化を控えて自動車行政の基本方針(後の特定産業振興臨時措置法案、「特振法」)を打ち出します。国際競争力の弱い自動車、鉄鋼、石油化学の3分野を特殊産業と指定し、行政指導によって産業規模の整理統合を行おうとするもの。自動車産業については既存企業の合併を推進し、国際競争力を高め、新規参入については法律で規制しようという目論見でした。
その内容は①量産車グループ=トヨタ、日産、マツダ ②高級車、スポーツカー、ディーゼル車などの特殊車グループ=プリンス、いすゞ、日野 ③軽自動車グループ=富士重工、マツダ――の3グループに集約し、新規参入を制約するという統制色の強い政策でした。
これに対して本田宗一郎は激怒します。
「特振法とは何事だ。おれにはやる権利がある。既存のメーカーだけで自動車をつくって、われわれがやってはいけない法律をつくるとは何事だ。自由である。大きなものを永久に大きいと誰が断言できる。歴史を見なさい。新興勢力が伸びるに決まっている。そんなに合同させたかったら、通産省が株主になって、株主総会でものを言え・・・・うちは株主の会社であり、政府の命令で、おれは動かない」(「本田宗一郎夢を形に:私の履歴書」日本経済新聞社)
もし、この法律が通ればまだ四輪車を生産していないホンダの四輪車への進出は不可能になります。激怒した本田宗一郎は通産省に乗り込み、時の企業局長で、後に通産官僚のトップである通算事務次官になる佐橋滋に猛然に抗議します。
「国の補助で事業をやって成功したためしはない。自由競争こそが産業を育てる」と強く主張します。
小型車に焦点を絞り四輪車へ進出そして、四輪車に対する強烈な事業意欲を基にホンダは乗用車生産を既成事実とするべく、1962年に軽トラックと小型スポーツカー「S360」を発表し、63年には小型高性能なエンジンを搭載した小型スポーツカー「S500」を発表します。
これ以前、1959年に本田宗一郎は来るべき四輪車市場への進出について「自動車はあらゆる点で絶対の自信と納得を得るまでは商品化を急ぐべきでない」と極めて慎重でしたが、特振法の動きがホンダの四輪車への進出を早めたと言えます。
小型車に焦点を絞ったホンダの本格的な四輪車は67年発売の「N360」で、初の本格的な空冷自動車でした。これはオートバイで熟知していた空冷2気筒を採用し、馬力、最高時速でそれまでトップだった富士重工のスバルを抜き、居住性を高めた「ユーティリティ・ミニマム」のコンセプトを取り入れたものでした。
発売価格は31万3000円という低価格を実現、発売と当時にたちまち軽自動車販売のトップに立ちます。
さらに発売の翌年の1968年から本格的に輸出をスタートし、生産開始から3年半足らずの70年9年までに生産累計が100万台を記録し、軽乗用車業界の地図を塗り替えていきます。


■関連記事
・日本のベンチャー企業列伝 ソニーとホンダにみるスタート時期の資金調達(
・日本のベンチャー企業列伝「ホンダ」1 語り尽くせない本田宗一郎のベンチャー精神
・企業グループ研究「森編」 昭和電工と味の素、それぞれの創業者は友人同士だった


http://news.livedoor.com/article/detail/6136637/
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